priv17’s diary

ジェンダー学とかちょっとしてた、社会で生きることに不真面目で男性嫌悪なシスヘテマジョリティ男。

「フェミニズム」を学んだ私にとって、ある記事が辛かった話

私のnoteをスキしてくださった方がスキしていた記事を読んだ。

フェミニズム活動家男性が性犯罪する病理」から、フェミニズムと日本社会の相性の悪さの根本原因と、苦境を打破する最大の味方はどこにいるのか?という話について

倉本圭造

https://note.com/keizokuramoto/n/n592eee1b4f41

この記事、かつての私にとっては存在は認知していたけど読まなかった記事だった記憶がうっすらある。元ヒスブルのあの方が性犯罪をしたというニュースを見て、決して他人事には思えなかった私にとって整理のつかないタイミングの出来事だったような気がする。

そして読んだ今、私は頭を抱えている。

 

「贖罪意識のナルシシズム」に関しては思い当たる節が山ほどあって、まあそれは私が至って自己肯定感が歪んで高いがゆえに選び取っている性質なのかなと思う。私は人と繋がることが決して得意でないし、社会との繋がりを感じることの少ない半生を生きてきたわけだが、そこには常に私への執着もあったはずで、それをナルシシズムと片付ければ非常に楽。ゆえにフェミニズムやらジェンダー学やらで触れたものからそういう意識が生まれるのは、それはそうという感じのことだったと思う。昔から「男」は嫌いだったはずだし、自らが「男」であることについて好ましくない想いをしてきたのだから、実にナチュラルにそうなった。

あの記事でその在り方に疑問が呈されることは、当然心地よくない。良い悪いとかではなく不快。

じゃあなんでそう感じたかっていうことを、単に「図星だったから」以外にも書き並べたい。

 

この人の記事においては、「フェミニズム」というものはより平易で世間的な理解がなされているところの「女性のための(社会)運動」的なニュアンスで使われているように思う。私がかつて大学で「フェミニズム」について触れたときには、より様々な社会的な弱者についてのことが抱合されていて、例えばトランスヘイトを許容する「フェミニズム」は許されない(「フェミニズム」ではない)という方向性においてのそれだったわけだが、あの記事で言う「フェミニズム」とは方向性が異なっている。あの記事の中で太田啓子さんの『これからの男の子たちへ』という本が紹介されていた。この本自体、かつての私にとっては「あー、これは学問として精緻化されたそれではないな」と思った本であり、この本が取り上げられているという点で畑の人ではなさそうだという確信を持った。

よりカジュアルで、しかし学問的な精緻さを持たないものとしてジェンダーフェミニズムブームが拡散していくことをどう捉えるべきなのかについては考え尽くしてまではいないのだが、あの記事もそういう文脈に置かれうるそれだと思ったし、必ず功罪入り交じると思っている。太田さんの本も、あの記事も、明晰である方々が自らの体験と頭の中での整然たる組み立てをもとに、手近な範囲で「フェミニズム」を語っているということ。これが一つの私が感じた心地よくなさの理由。

そして、そうであってこそ突き刺さるものが多かったという点も心地よくなさの理由。

先程も言った通り、あの記事は実に明晰である。フェミニズムの畑ではない代わりに様々なものを持っていて、説得力がある。上記のように、私も「図星」を感じていたわけで。じゃあその「説得」になぜ「納得」していないかといったら、私が書き手に対して断絶を感じたからだろう。平たい話、「この成功者が…」と思っている。向こうがどう思うかは知らないが、少なくとも私の方からは壁を感じてしまうし、多分それは私が壁を積極的に作っているということなのだろう。

この方は明晰であると同時に様々な肌感覚の経験を持っていて、その経験から来る分析を持っている。これは人や社会と折り合えずに生きてきた私の経験や分析とはまるで異なる。所詮私は机上止まりだし、向こうはまるで「人間の本質に気づいている」かのようにさえ見える。そういう個人経験の差、あるいはそれは個人の能力の差なのかもしれないが、それによって「フェミニズム」についての眼差しが異なっていて、どうも見ている限りあちらのほうがより良いように見えてしまう。ただのルサンチマンだが、この人の言葉を見ていると唇を噛むような想いがする。

あの記事でサムライしぐさとナイトしぐさの話が出ているが、あれも言っている内容は理解できるしなるほどと思ったが、「かつてコンビニで騒いでいるおっさんをなだめて外に出したら泣いて謝られた」とか言ってるのを見ると、「そもそもそこでおっさんに介入できるという性質の時点でおめーとわしは異質だわ」とか思ってしまう。男性同士での繋がりの重要さを理解しつつ、未だにそれが実行できない私には、「おめーにわしの気持ちなんて分かってたまるか」と。「男と向かい合うのが怖い」心が防衛機制をかけてくる。「良いホモソーシャル」にたどり着けない。

繰り返すが、あの記事は本当に上手に分析していて、確かに上手く行きそうな提案をしてくる。それは、私がかつて学び、今も大事にしている「フェミニズム」に対して、「でも結局人が救われていくほうが大事だし有意義だよね」と言って実用的な「フェミニズム」を優先している在り方は、あまりにも痛く刺さる。「フェミニズム」を学びながら、どうしたら実際に世界は良くなるだろうかと考えてきた私の逡巡をあっさりと超えている。私がどうしても乗り越えられない「対男性」との在り方にあっさりと蹴りをつけている。そういうのを叶えられる能力があり、有意義さを重視する姿は、私とはほとんど被っていない。

極端な話、「『フェミニズム』やジェンダーについて考えていた私の5年間、なんだったんだろう」とさえ感じたものだった。

かつては実用的に「私が生きやすくなるもの」として「男性学」を見ようとして、それでジェンダー学とフェミニズムに出会った私にとっては、そういう「実用性」にばかり頼ると必ずどこかに綻びが出るだろうという意識は、学問的な「フェミニズム」に対面した自分になくてはならないものだった。「贖罪意識のナルシシズム」は、こと私にとってはばっさり切り捨てることはできないほど切実なものだった。そういう自分を再び問わなければならなくなる。自分の欺瞞のようなものに目を向けなければならなくなる。そのことは、非常に心地よくなかった。衝動的に過去のnoteを消してやろうかと思うくらいには心地よくなかった。

もうフェミニズムとかジェンダー学の世界から逃げ出したいな、と感じた。そして、多分それはもうできない。

 

今度の7月から、ついに働き始めることになる。昨年働き出そうとして、しかし副反応から体調を崩して働くことが叶わなかった出来事から1年とちょっとが経とうというタイミングである。果たして、私が社会に出たとき、どのような変化があろうか。できればより健全で、思考が可能になっていたら嬉しい。

 

追記:学生時代の私はあの記事にある「良いホモソーシャル」なるものの外側にいる男だったような気がする。だからその価値を信じられないんだな。