priv17’s diary

ジェンダー学とかちょっとしてた、社会で生きることに不真面目で男性嫌悪なシスヘテマジョリティ男。

「男性」の私の「男性嫌い」の根源について少々。

https://twitter.com/priv93539704/status/1445623123978510344?s=20

上記のツイート内容のコピペ
「私がかくありたいと思う存在と「男性」の乖離があるっぽいな この乖離がある限りは私は「男性」を呪い続けるんだろう」

性別二元的な言い方になることを前もってご了承いただきたい。性別は二つであるという前提に長く生きてきたがゆえに、積み上げてきた私の人生がそう語らざるをえないのである。

私にとってのかくありたい存在を一つ一つ挙げて検証したわけではないけど、私にとってのかくありたい存在はかなりのところで私にとっての「男性」と一致していないのだ。
私にとっての「男性」というのは、約20年の積み重ねと、その上に建てられたジェンダーに関する様々な情報から成り立っているはずであって、ある意味では偏っていて、ある意味ではなるべくしてなっていると思う。私は「男性」という存在と「女性」という存在とでは、より「男性」に脅かされてきたし、怒りや憎しみを覚えてきたし、汚いものと感じてきた、はずである。もはやその事も確かかは分からないけど、そうでなければ私が「男性」をここまで嫌ってきた意味が分からない。
「脅かされる」というのは、力によるものだろう。私は偶然にも、ほとんど「女性」に暴力を振るわれたことはないはずである。あまり接する機会もなかったからだろうが、一方で少しは「男性」に力を行使されてきた、と思う。「怒りや憎しみ」は私の中の「かくあるべし」を破られたときのものだろう。有形無形のルールや秩序を破るということ。私は「男性」のそういう姿をよく見てきたのだろう。「汚い」とは、よく分からない。衛生的なものだけじゃなくて、きっと醜悪であるとか、卑劣であるとか、そういうことをも言いたいのだろう。
以上の感覚だって、バイアスがかかっているに違いない。私がさしても「女性」のことを知らずに生きてきたということとか、「男性」とはそういうものであると様々なメッセージによって刷り込まれてきたこととか、きっとそういうフィルターはあったはずで。それでも、それを身に着けてきたことは間違いなかった。
私がよく言う「男性嫌悪」はそういう乖離からきっと来ている。私は「べき論」に縛られがちであって、そういう自分の中の「かくあるべし」に従わない者が、より「男性」に見られたのだろう。やがてそうした視線を「男性」に向けるようになるし、またそうした視線は私にも向けられるようになる。
私は「そうなりたくなかった」。私の嫌いな「男性」になりたくなかった。しかし、実際のところはそう相違なく今の私がある。「怒りや憎しみ」とはまた違うかもしれないけど、「失望」はそこにあるし、「脅かす」存在はここにいるし、「汚い」私は私には確かである。もう、そうとしか思えない。だからそうある私を変えたいと願ってはいるし、そういう私を振る舞おうとしている。しかし、とても難しい。とりわけ相対的に「男性」であることを認識させられる場(例えば、「(シスヘテマジョリティ)男性」以外がいる場)では、私の「(シスヘテマジョリティ)男性」たることが実に重苦しい。
「男性の友人がいない、作りたい」と言い続けてきた私だが、未だに一歩は出せないし、おそらくその気はしばらく起きない。「男性」を恐れ、「男性」を憎み、「男性」に悩み続ける。こんな状態ではしばらく難しいだろう。「男性」と触れるために認知の歪みを治すのが先か、歪みを治すために「男性」に触れるのが先か、そのどちらにも踏み入れずに今の私がある。

こんなものを書いたところで、私は何かに希望を見出そうとするわけではない。それでも書いてしまうくらいには、私は膿んでいたのであった。