priv17’s diary

ジェンダー学とかちょっとしてた、社会で生きることに不真面目で男性嫌悪なシスヘテマジョリティ男。

大学生の頃の私には見せられない姿に変わり果て

かつて私は大学でジェンダー学やらフェミニズムやらクィアスタディーズやらに接することとなり、様々な知見を得て、その学習の記録と湧き出てくるものの置き場と「私の声がどこかに届くかもしれない」という謎の自信を理由に必死にnoteを更新し続けたわけだが、知識を得る機会が減ったことで私の学習は大分止まってしまった。あの頃は入れて出してある程度は頑張って学んだものだったが、果たしてどれほど立派なものが生まれたことだろうか。

ある意味では希望と期待に取り憑かれて頑張っていたはずで、こうやって勉強していって知識を得て自分に活かして他人に活かして、そうやっていけば私は一つの方向性でなりたい私に近づけるかもしれないと思っていたはずだし、その一つの手段として毎日何らか書こうとしていた。
徐々に気づいたこと(であって薄々気づいていたかもしれないこと)は、私は思いの外ヤバい奴だったということである。「こんなにも頭が悪いのか」ということは改めて知ってそこそこ凹んだし、何よりも今私を悩ませるのは「私と性欲、性行動」を巡る諸問題である。
あの学習の期間を経ても、私はさしても変われなかった、といってもいいと思う。性に関する様々な知識を得て、様々な人に出会って、様々な物に触れたはずの私が、さしても変わっていないのである。それはおそらく、結局のところ私を触ることができなかったということだと思う。
私は私に絶望したのだ。これ以上何も期待ができないと見捨てるところまで行ったということだ。
学びが止まってそういう自分に目を向けて「徒労だったのか」と気絶して、そうやって今、ほとんど文章を書くことがなくなったこのブログに繋がってくる。いつまでも私は汚いままである。自覚的だからなおのこと厄介である。

もはやジェンダー学などを介した繋がりは潰えつつある。大学でお世話になった方はいずれもその大学を去った。noteでお話させていただいた方と話す機会も減って、今となってはその人たちと話せる知識も甲斐も持ち合わせる自信がない。あのnoteのことを教えていた友人のうち、一人はジェンダー学の学びをほぼ辞めているし、一人とは疎遠になってしまった。まるで、緩やかにこのブログを書いている「私」は消えていっているかのようだ。甚だ困る。残るのは諦めて腐り続ける「私」だけになりそうだ。

ツイッターでは書いているが、5月から働ける予定が体調不良によりキャンセルになった。今は何ができるのかさっぱり分からない中で無駄に人生を浪費している感じで、しかしそれでもジェンダー学に手が伸びない。もはやジェンダー学では私は変われない、だから学ぶ気になりませんと宣言したようなものかもしれない。ジェンダー学に託したあの頃の夢でさえ捨てた私に、いったい何が残っているのか。考えるまでもない。