priv17’s diary

ジェンダー学とかちょっとしてた、社会で生きることに不真面目で男性嫌悪なシスヘテマジョリティ男。

「陰キャ」と「陽キャ」

自分の価値観の中で強固にこびり付いているのは「陰キャ」と「陽キャ」という壁である。

私はお笑いが好きだった。かつてNHKで放送されていた『爆笑オンエアバトル』という番組が好きで、そこに出てくる「正統派」なお笑い芸人が好きだった。一方で『エンタの神様』のような番組に出てくるノリの芸人が嫌いだった。でも売れるのはオンバトで安定して笑わせてくれる芸人ではなくて、そういうノリだけの芸人ばっかりだったりして、私はがっかりしていた。
オンバト」シリーズが終了してからは私の好みじゃないお笑いが人気を集めることが多く、私はやがてお笑い好きを辞めた。自分の笑いの価値観が皆と合ってないことが分かったから。

最近気付いたことなのだが、「私が好きなお笑い」と「私が嫌いなお笑い」は「陰キャの笑い」と「陽キャの笑い」と言い換えられるかもしれない。なんじゃそら。端的に言えば世間ウケが良く、ブームを作るヤングたちが好むようなノリの笑いが嫌いらしい。最近のノリで言えば人気のyoutuberだのtiktokerだのが「陽キャの笑い」である。教室の前の方で大声ではしゃぐ奴らの笑いではなく、教室の後ろの隅でぼそぼそと話す奴らの笑いのほうが私の好みである。「オンバト」は「陰キャ」で「エンタ」は「陽キャ」である。
これだけじゃなくて、私は世の中の様々なものを「陰キャ的」か「陽キャ的」かで分けて判断していることが分かった。無論、「陰キャ」が好みで「陽キャ」が苦手。私がそういう考え方をし始めた頃は「陰キャ」だの「陽キャ」だの、そんな言葉は無かったのだが、その当時の考え方を振り返ると「陰キャ」「陽キャ」という分け方が絶妙にマッチするのだ。

なぜ私が「陰キャ」「陽キャ」を重要視するようになったか。理由はすぐに思い当たる。まさしく私が教室の後ろでぼそぼそしてるタイプだったから。そして教室の前ではしゃぐ奴らを目の敵にしていたから。教室を我が物として楽しそうにしている奴らを憎んでいたから。そして、そいつらへの憎しみを「しょうがない」ものとして受け入れたから。自分が「陰キャ」で奴らが「陽キャ」。それを受け入れない限り、奴らの奔放と混沌を受け入れられなかった。無理やり呑み込んだ副作用が今も続く。中学生の時に休み時間のたびに人気の少ない階段に座り込んでいた自分は、大学生になっても喧騒を避けて同じ行動をした。よく響く階段だった。

そうやって自と他を区別する考え方が私を固定する。私は私らしさに縛られる。私自身はそうすることで秩序を守れるのだけど、世の方は混沌だから適応力がない。私はガラパゴス化していく。踏み越えて陽キャの領域に侵入することはできない。
「私は我慢しなければならない」と思った。陰キャだから。「私は辛さを受け入れなければならない」と思った。陰キャだから。「私は自分を優先してはならない」と思った。陰キャだから。そういう意識はルールになって、私にとって破れないものとなる。根付く。そうしないと自我が破れていくから。
こんな人生である。